ピアノ研究
ピアノデータ集 no.2
プレイエル ピアニーノ
PLEYEL pianino
- 創業者 イグナーツ・プレイエル Ignaz Pleyel
- カミーユ・プレイエル Camille Pleyel
- 文献
特徴
- ☆小型。
- ☆装飾性に富む。
- ☆音は、柔らかく、おとなしい。
- ☆オーバーダンパー(ダンパーの位置が、ハンマーヘッドの位置より上にある。)
- ☆アクションの形式は、現代的なダブルアクション。
- ☆ソフトペダルを踏むと、グランドピアノのようにアクションが右にスライドして、ハンマーの弦をたたく位置が変わる仕組みになっている。(現代のアップライトピアノでは、このような仕組みにはなっていない。)
製造年
- ☆天蓋すぐ下のピン板上部に刻印された製造番号。(左図)
- ☆PIERCE PIANO ATLASによると1843年に#10000,1848年に#15000であるから、およそ1845~6年頃の製品と思われる。
状態
- ☆オリジナルの状態をとどめている。
- ☆バランスピン(左図)の形は現代のピアノとほぼ同じ。古いピアノではこのように錆びて、鍵盤の動きが悪くなることが多い。
- ☆響板にいくつかの割れがはいっている。(左下図)
- ☆駒の形状は現在のものとほぼ同じ。(左下図)
- ☆調律は長年していなかったので、かなり下がってしまっている。
- ☆チューニングピン(上右図)は、現代のものと同様、四角形。サイズは小さい。後の修理で錆止めの黒い塗料が塗られている。
歴史
- ☆1807 イグナーツ・プレイエル Ignaz Pleyel、ピアノの製造を始める。
- ☆1824 長男の カミーユ・プレイエル Camille Pleyelに仕事を引き継ぎ、Ignazは引退。
- ☆1831 Ignaz 没
- ☆ショパンの熱狂的な支持を得る。
- ☆1855 Camille 没。August Wolffが引継、"Pleyel,Wolff
& Company"に改組。
- ☆1889 Wolffの采配により、年産2500台に。
- ☆1887 Wolff 没。Gustave Lyon が引継、"Pleyel,
Lyon & Company"に。
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Ignaz Pleyelイグナス・プレイエル 創業者
- ☆1757 ウィーンの近くの Rupperstahlの村で、38人兄弟の24番目の子として生まれる。
- ☆音楽の才能は著しい進歩をとげ、15才のころ、エルデディー伯爵の援助でハイドンについて作曲を学ぶ。
- ☆その後イタリアに行き、ナポリの宮廷で王様の要求で、オペラや、たくさんのオーケストラ曲を作る。
- ☆1783 〜 1793 ストラスブルグの大聖堂のチャペルマスターになりる。
- ☆その間、たくさんの作品を書き、ヨーロッパ中でよく売れる。
- ☆1793 チャペルマスターの職を辞して、ロンドンでの有利な契約を得る。
- ☆ロンドンでは、旧師ハイドンと、コンサートで競争するようになったが、うまくいかず、すぐにストラスブルグにもどる。
- ☆フランス革命の時は、王制派と目され、繰り返し死刑を宣告された。勇敢に共和制への忠誠を主張した彼は、そのテストとして、革命劇のための作曲を強要された。二人の憲兵の監視の中、彼は7日で、作曲を終えた。その曲は多くの民衆の拍手喝采を受け、彼の共和制への忠誠は再び疑われることはなかった。
- ☆その後パリに移る。
- ☆1805 楽譜出版の仕事を始める。
- ☆1807 ピアノ製造を始める。
- ☆1824 仕事を長男の Camilleにゆずり、パリの郊外で1831年12月14日没す。
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Camille Pleyel カミーユ・プレイエル
- ☆1792 Ignaz Pleyelの長男としてストラスブルグで生まれる。
- ☆父から音楽を学び、また後にピアノをDussekに学ぶ。
- ☆豊かな音楽的才能を示し、ピアノメーカー、楽譜出版者としての仕事が無ければ、偉大な作曲家になっていただろうといわれるくらいであった。
- ☆彼は有名なピアノの名人の Kalkbrenner と共同し、共に数年間ロンドンに渡り、Broadwood,
Collard, Clementi などでピアノ制作を学んだ。
- ☆Wornumのアップライト・アクションと,また、グランドピアノには、Broadwoodの方式を採用。
- ☆ロンドンで始まった新しい生産様式を工場に取り入れ、成功を収める。
- ☆Camille, Kalkbrenner と経営者のどちらもが、高いレベルのピアニストだったため、著名な人たちと親交を持つようになる。Camilleは Frederic
Shopin フレデリック・ショパンと個人的な親交を持ち、ショパンはPleyel
pianoの熱狂的な支持者となる。彼はほとんどの演奏会でpleyelを使用した。
- ☆1829 にできた Salle Pleyel(サル・プレイエル)(プレイエル・ホール)では、ショパンや、アントン・ルビンシュタイン、サンサーンスなど、多くの著名な音楽家が成功を収めている。
- ☆1855 5月4日、パリで没。
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文献
- p.254 Alfred Dolge "Pianos and their
Makers" Dover 1911
- p.234 Pierce Piano Atlas
- p.2734 音楽事典 平凡社
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1997.04.13 Megumi Imai
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1997.04.03 Megumi Imai
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